昭和40年05月25日 朝の御理解



 「弱気を助け強気を挫く」。昔の侠客何かの人気を呼んだ人達、人気を受けた人達、何か、そういう人達がみんなの人気を集めることが出来ておりますですね、「弱きを挫き」ああ、これ強気を挫き、ね。弱気を助けると、信心にはやはり、そういう精神が必要なようですね。ところがその、弱い者は弱い者いじめと言うのがある、そういう人に限って強い者にはもうぺこぺこする。
 もう本当にその何て言うですかね、いやな感じの事ですね、弱い者にはその虐め強い者にはぺこぺこすると、ほんとに嫌なもんですけれども、案外そういう者が多いんですよ。そしてその私達の心の中にもそれがあるんですよ。教祖の神様は元気な心で信心せよとこう仰せられる。元気な心で信心せよということは、まぁ色々、頂いてみる、どうもその、弱い者いじめの信心では元気な心で信心が出来ません。
 いわゆる強い者にぶつかって行くという、ね、昨日は、秋山さんところの、北野の秋山さんところの、謝恩祭がございました、一生懸命の思いが、ね、隅々まで溢れておるといったようなお祭りでした。秋山さんが言うておられましたが、ほんとに今度は、もう、お年寄りの方達がもう、ズうからやってくださる、腰越しと、御用に来て下さった、時に、上野さんやら、秋山のお婆ちゃんのこと、敬親会の方達二人。
 もうこの二人の方が中心になって、もう、一生懸命に、なんちいうかな、いわばやって下さる、もう、腰の入れようが違いますもん。本当にもうおかげ頂きましたと、それに若い方達がお手伝いをなさっておられますから。まぁほんなら勝手なら勝手の方のことでも、御直会の上の事なんかでも、そうですねぇあの御直会場に座っておられる方達が50人からあったでしょう。
 勝手に立っておられる方やら合わせますとやっぱ70名くらいあったんじゃないかとこう思うですけどね、本当にチョつとした教会の御大祭のような感じのあるお祭りでした。あれだけの事をです。その、ただ、あ、いわゆる、その、おも、重しゅう的な、その者が、あ、いくら集まってもダメ、やはり中心になって腰越しとです御用いただく人があって初めて事がなされる。どうぞ一つ私達は何処までも信心さしてもらい、謙虚に実意丁寧、を持ってするならばです。
 私共の心の中にある弱い者いじめ的な信心、弱い者いじめ的な内容と言う様なものを、いよいよ撤去していかなければ、そして愈々元気な心でです、いわゆるそういうようなものにぶつかって行く、ぶっかって行っても強いものですから負けるかもしれません。いや、負けます。それでも、へこたれずに矢張りぶつかっていくという信心。ね、元気な心で信心しようというのは。うん。どんな難儀に立ち向かってもです。
  どういう強がりぶっかっていってもです。負けても負けてもです。いよいよ負ければ負ける程です。やられればやられるほどです。心の中に不安とが湧く信心を、私は元気な心でというのではなかろうかとこう思ですね。一応はです、みんな一生懸命になるんですよやはり。何事にでも、ね、ひとつの願い事なら願い事と言ったような事にでも。一時、一応は一生懸命になるけれども、ちょっと障害がある。ちよっと向こうの方が強かった。いうならば、少しめぐりのほうが強かった。
 もうへとへとになってしまっとる。してもう私どもはでけんと言ってからもう立ち向かう元気がなくなる。本当に言うたらこちらはへとへとの時にはですね、いくら強いもんだってむこうの方だってヘトヘトの時ですから。そこんところをひとつ、歯を食いしばってでもです。そのぶつかっていくような信心にならなければ駄目です。ましてそれがです。ね。一つの大きな事。ね。
 5年10年一生懸命になったからって出来る事じゃないと言った様な事柄なんかはです。その中心になる人たちがです。ね。その勢いがありますとです。おかげを頂けます。お月次祭の晩、今、後かたずけが済んでからでございました。丁度皆さんお参りになった方はご承知だったでしょうけれど。この御造営の設計図が出来て、あの大盛り台いっぱい、もうぼつだいなもんです。ね。
 あのう、あれを下げさせ頂かせてもらいます時に、神様にお礼もうさせて頂いとりましたら、神の造営は済んだとこう頂いた。かみというのは神様のかみもばってん。まあ紙の上に現れてくるところの、設計と言う、御造営という意味でしょうね。やっぱあれが何十日間、やっぱその不動産屋さん、不眠不休でしかもそれを若い方達を五人も六人もやってもらってから、あれだけのものは完成された。
 確かに紙の上の神様、紙の上でも家が建ち上がった。まぁ、同時に神の造営、神様の御造営は、神様の御設計通りに出来たというふうにも頂けるだろうと、こう思うんですよね。さぁ、これから、氏子の設計、氏子の造営が難しいんだと。そして、お礼を申し上げさせて頂いとりましたら、あの、いつも御大祭の時にお供えいたします菊正宗の、あのう生ですもんね、あれは、生のお酒ですけれど、金樽のお供えがいつもあるでしょうが、あの金樽を頂きますもん。
 はは今日は、そのう御神酒とやっぱりそのまぁ御造営が済んで、紙の上の御造営が済んだんだから、こりゃ御神酒を上げなならんじゃろうかと思いましてですね、けれども私はもう金樽がもうあるとは思いません。あれは早く使わんと悪くなりますもん、生ですから。だからあるはずがないけれども久富先生に聞きましたら、ひとつ残っております一樽、んならやっぱそうですばいというてから、冷やで、したらそん時は、大変皆さん、どうしたことだったでしょうかね、やっぱり20何名残っておられました。
 でその方達に、まあ一杯差し上げて、後はお茶頂いたんですけれども。あの時にですね、あの御神酒を丁度頂き合わせた方、いよいよこれは、あのう、今度の御造営のです、いわゆる氏子の御造営のいよいよ一生懸命にならなならんと言って冗談言って話した事でございますけれども、それから、あ、もう、御神酒の程度ですから、直ぐあと、お茶に致しました。お茶ん時に、あのう出てまいりました茶菓子がですね、あのう「いぜき」っていうんですかね?「いぜき」かなんかっていう、そのお菓子でした。
 どっか浮羽郡の方に、あのう昔庄屋さん方がですね、人柱を立ててから堰を作られたという、それをなぞらえてからのお菓子なんですね。いわゆるその一生懸命のもの、命がけのもの。次に、あのうかちぐりって、まあ、私は宝石かと思うて、宝石箱なら箱に入って、何だろうかと思うたところが、かちぐりだった。甘栗ですよねえ。ですから、例えば、これは、丁度、こっちの御造営のことを何かこう、暗示を受けたような感じを受けたような気が致しましたけれども、本当にあのうあの時代にですね。
 例えば、あの、ご庄屋さん達が人柱まで立てて、いやぁそのう立てるようなその意気込みでですか。その大事業に取り組まれたような意気込み。ね。まぁ、それこそ、これは弱い者いじめの信心。弱い者いじめ的なものでは、出来るこっじゃない。では、皆さんも、一つよろしく御願いします。私達は一つ命を賭けておるというような、一生懸命ものであったから皆が、皆がついて見えられた。ね。
 どうでしょうか。上役の人達が、儲けるために、ね。それこそ、下の人たちをとにかく使うしこ使うてから、いわゆる、弱い者いじめ的なようなことでは、とても、ああいうような大事業は出来あがらなかっただろうと、こう思うんですよね。いわゆるかちぐりではなかったろうかと思うんですよね。それで、もう私がこの前の月次祭にも申しましたように、椛目に五十名の方たち、五十名の方たちが、立ち上がって頂く。ということは、私はその、五十名の方達がです。ね。
 本気でそのことに取り組まれると。ね。いわば弱い者いじめ的な信心ではなくてから、強い者にぶつかっていくと、とても出来ることでない事柄にぶつかっていくのですから。やっぱその、元気が要るということです。音羽の信心内容の中にです、そう言うような元気な心というか、ね。ぶつかって行って、出来なかったら出来なかったで、へこたれるような心がありゃぁせんかと。
 例え、どういうことがあっても、石にかじりついてでもっていうか・・・そういう、ぶつかって行こうというそのファイトが沸く、昨日、相方が、御造営のために、ああして仕事を始めた。ところがあんまり調子が良く行かない。ね。ですから神様は、私をもう使うとは思ってはござらんのではないだろうかと言うような意味のことを言うておられます。例えば神様がです。もう使おうとおしゃってもです、ね。
 この場にだけは、使うて貰はなければならんと言う様な意気込みが、神様は求めておられるんじゃなかろうかねといって話した事で御座います。ね。まぁ腰掛けでも一生懸命なっとるばってん、おかげを頂かんとこを見ると、神様は私共を使うて下さらないじゃろうって言う様な弱気ではいかん。例え使うてじゃぁお前の様な者は使わんと仰ってもです。ね。ご無理にでも御願いしてから使うて頂こうという意欲というか、ね。
 ファイトと申しますか。そういう私は強い者にぶつかって行くところの内容でありたい。ね。ところが私共の心の中にです、ね。弱い者いじめ的な信心がある様な事ではです、おかげは頂けません。ね。どうもその周りはです、けれどもその実際厳密に言うてみて、自分の内容というものを調べてご覧なさい。もうホントに相すまんことですけれども、そういう弱い者いじめ的なものが、心の中に潜んでおる。
 それではそれがです、いつの間にか態度に表れてくる。実意丁寧、謙虚さといったようなものがなくなってくる。ね。それでは、後からの方達がです、まぁ五十名が立ち上がられたというけれどもです。五十名の者の一生懸命の思いにです、神様の働きが下さると言うことだけのことです。五十名でこうしろと言うわけではない。五十名の一生懸命のものがです、その方達が付いて来ると言うことです。だから出来ると言うこと。
 それを小さく言うならばです。昨日の秋山さん所の謝恩祭がです。ね。勝手の事を中心になられたのは、やはり、おばぁさんたち二人じゃったということ。ね。そしてはまり方が違いますもん。もうづーからいっちょる。もう腰越しとはまっちょる。それに若い人達がついてくる。御用される。そこにいわばたったあとも、いわんごたるおかげにでもなってきたようにです。ね。
 これからまた、段々、大きくなってくりゃ、大きくなってくるだけ、ま、椛目では、五十名の人が、一生懸命にならなければ、後からついて来る者はおらんということ。だから、ほんとに一つ、その内容としてはですね、いわゆる、元気な心で信心せよと仰る、元気な心が必要であり、元気な心とは、強い者にぶっつかって行く精神。一遍、ぶっつかっていったけれども、駄目だったと言うて、へこたれるのではなくてです。
 ますます自分の心の中に、ファイトが湧いてくるような、内容であるならば、貴方の信心は元気な心であるということがいえる。けれども、昨日の方が言われるように、ぶっつかって行ったんだけれども、おかげ頂けじゃった。だから、神様が、私共は、使わっしゃらんとじゃろかというような心では、おかげにゃならんという事。ね。そういうような、内容の人ほどです、ね。例えば、その、弱い者いじめ的なものが内容に、あることを分からせてもろうた。普通じゃ分かりません。ね。
 けども、自分で、いよいよそこんところを分からせて頂いて、強気を挫いて、弱きを助けるという精神の信心。ね。それとは反対にです。ね。弱きを挫いてから、めぐりのほうを助けると。強いほうを助けるというような内容が、これから先でもあってはならないという事。ね。いよいよ元気な心で、おかげを蒙らせてもらい、ね。あの、何百年前にです。いわば、川をせき止められるのにです。
 人柱でも立ててからでも、と、上に立っている庄屋さん方が命がけで励まれた。そこに、ね。庄屋さんたちは、殺してはならんと、何百の農民がそれに立ち上がったと。ね。例えば、椛目でいうならです。椛目の総代さんがたが、今度はです、ね。もう、全財産を、もう本当に、そこに打ち込んで、戦っておられると、そういう例えば、一生懸命のものが、もし、その、それがいるときにです。ね。
 総代さん方をぼんさんにしてはならん。ね。総代さんがたを困らせてはならんと。難儀をかけちゃならんという、私は、大きな、いうならば、意欲がです、椛目全体の上に、漲るようなおかげになってくると、私は信じます。どうぞ一つ元気な心で、ね。それは様々な障害があるたんびにです、ありましょう。あるたんびに、ファイトが沸くような信心を育てて生きたいと思います。
   おかげ頂かねばいけません。